プロフィール

Author:牛男
■マレーシア在住の塾教師。
インターナショナルスクール
IB Japanese講師。
男性 牛男、otiani
■ことば・異文化・論作文の紹介・マレーシアの紹介がメインですが、あちこち脱線しがちです。
■2007年2月2日開設

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

カレンダー

10 | 2009/11 | 12
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 - - - - -

FC2カウンター

全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

Ads by Google

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

みんなちがって、みんないい。

金子みすずの名前は聞いたことがある程度でした。生徒が口ずさむのを聞いて、「誰の詩?」と聞くと、「先生、金子みすずを知らないの?」って驚かれたり、「先生、金子みすずの詩っていいよね」と言われたり。詩人について生徒から積極的に話しかけられた珍しい経験でした。そういうわけで「みんなちがって、みんないい。」というフレーズぐらいは知っていたのですけれど、詩集を手にするまでには至ってなかったのです。

先月、日本に帰国した生徒が、何冊かの本を寄付してくれました。その中に『金子みすヾ童謡集』(角川春樹事務所)がありました。僕は、いま、『老子』の訳を試みています。それは、従来の訳がもの足りないからです。日本では漢文は「男の文学」だったので、どうも勇ましい。老子ですら男らしくがっしりした訳になってしまっています。そのことにずっと違和感があって、原文を眺めていると、あれ、違うんじゃないかという気持ちになりました。そのあたりのことは省略しますが、老子の訳をしているときに、金子みすずの詩に出会って、僕の中では、高良訳タゴールと、牛男訳老子と、金子みすずの世界がすっと重なりました。

簡単にいうと、それは、価値判断の入らない世界です。小鳥があって、鈴があって、私がある。それぞれの存在は、あるがままにあり、なすがままになしている。それは宇宙の中にある物質が、たまたま小鳥や鈴や私という形をとっている。


「打たれぬ土は/踏まれぬ土は/要らない土か。
いえいえそれは/名のない草の/お宿をするよ。」(「土」より)



役に立つ、役に立たないというのは、ある条件のある人間によって価値判断がなされたものです。しかし、宇宙は、そして宇宙に偏在しているありとあらゆるものは、人間の価値判断などには頓着せずに、「関係」しています。さまざまに出会い、結びつき、離れていく。老子が「道」と呼び、仏教が「縁」と呼ぶ。それを、人間中心の価値判断が歪めてしまう。老子はその状態を「大道廃れて仁義あり」という言葉で表現します。


「星とたんぽぽ」

青いお空の底ふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまで沈んでる、
昼のお星は眼にみえぬ。
  見えぬけれどもあるんだよ、
  見えぬものでもあるんだよ。

散ってすがれたたんぽぽの、
瓦のすきに、だァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根は眼にはみえぬ。
  見えぬけれどもあるんだよ、
  見えぬものでもあるんだよ。



金子みすずは、見えないものに目をこらし、聞こえないものに耳を澄ませる人です。「形あるものは形ないものに触れている」ことを、理屈によってではなく、身体感覚によって知っている人です。存在の奥にある宇宙エネルギーの大きな流れがあって、それを感得できるものたちの世界では、「みんなちがって、みんないい」のです。


「私と小鳥と鈴と」

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面を速くは走れない。

私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。





価値を共有している社会、豊かで平和な社会に住んでいる者同士でないと「みんなちがって、みんないい」とはいえない。そういう考えを持つ人もいます。そうでしょうか。僕にはその世界観は窮屈すぎます。なぜなら、それは結局「みんなおなじで、ちょっとした差異を楽しむ」社会でしかないからです。金子みすずの「みんなちがって」は、もっと徹底したもの。おそらく、人間社会に対する絶望をも前提にしたもの。やさしく、やわらかく、みずみずしいことばを紡ぐ人というのは、そのような地獄と諦念を静かに抱きしめているものです。

金子みすずは昭和5年(1930年)、26歳で自死しています。父を早く亡くし、生活を支えるために結婚しますが、彼女に理解を示さない夫から、創作することも文芸仲間と文通をすることも禁じられます。遊廓遊びを続ける夫から淋病を移され、離婚を決意します。離婚の条件は、娘を自分が育てたいということ。それすらも、認められずに、離婚の10日後に自ら命を絶ちました。

金子みすずは、夫から表現活動を禁止された後、娘のことばを集めた「南京玉」という手帳をつくります。


「南京玉」

なんきんだまは、七色だ。一つ一つが愛らしい。尊いものではないけれど、それを糸につなぐのは、私にはたのしい。/この子の言葉もそのように、一つ一つが愛らしい。人にはなんでもないけれど、それを書いてゆくことは、私には、何ものにもかへがたい、たのしさだ。/南京玉には、白もあるし、黒もある。この子の言葉は、意味はなくとも、また「詩」なんぞはなおのこと、えんもゆかりもなくっても、ただ「創作」でさへあれば、残らず書いてゆく事だ。



他の人からみると価値のないもの。でも、それは自分にとっては何ものにもかえがたい。金子みすずは、「かけがえのないもの」を、「あるがままの存在」をあらゆるものに感じとってしまう人だったのでしょう。



「不思議」

黒い雲からふる雨が、
銀にひかっていることが。

私は不思議でたまらない、
青い桑の葉たべている、
蚕が白くなることが。

私は不思議でたまらない、
たれもいじらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。

私は不思議でたまらない、
誰にきいても笑ってて、
あたりまえだ、ということが。



このブログでは「異文化交流」をテーマの一つにしています。小論文の授業でも中心となるテーマです。異文化を理解するためには、自らの価値を相対化する視点と、「寛容性(tolerance)」が必要であると僕は考えます。しかし、金子みすずの「みんなちがって、みんないい」は、そうした相対主義とは違うのです。そうした論理は大人の思考であり、そうした大人の賢しらな思考を金子みすずは身につけることはなかった。彼女は少女にとどまったまま、世界とじかに触れていたのです。そこでは、宇宙の中にある物質が、たまたま小鳥や鈴や私という形をとっている。そして存在の歌をうたっている。だから、「みんなちがって、みんないい」のです。

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURL:
http://otiani.blog82.fc2.com/tb.php/646-1d206e24

FC2Ad

FC2ブログ