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あるがまま、なすがまま。
天下皆知美之爲美
斯惡巳
皆知善之爲善
斯不善巳
故有無相生
難易相成
長短相形
高下相傾
音聲相和
前後相随
是以聖人處無爲之事
行不言之教
萬物作焉而不辭
生而不有
爲而不恃
功成而弗居
夫唯弗居
是以不去
世の中の人がみな、美しいものを美しいと認識したときに、
おのずから醜さの認識が生まれました。
みなが善なるものを善と認識したときに、
おのずから悪の認識が生まれました。
このようにして、
存在するものと存在しないものは認識することによって生まれ、
難しいものと易しいものはおたがいに補いあい、
長いものと短いものはそれぞれの形をはっきりとさせ、
高いものと低いものはそれぞれの差をあらわし、
異なった音階はハーモニーを生み、
前と後ろはおたがいの順番をつくるようになったのです。
聖人はそのことを知っているからこそ、
認識することをやめて、なすがままにしておき、
沈黙することで宇宙の神秘を伝えようとしました。
あらゆるものは、それぞれ気ままに動きまわるだけで、その意味を求めたりはしません。
なにかが生れても、それを所有することもなく、
なにかの行いをしても、それに頼ったりはしません。
なにかが成しとげられても、そこにとどまったりはしないのです。
そう、そこにとどまったりはしないのです。
それだから、何ものも失うことはないのです。
僕の訳はとんでもない誤訳かもしれない。小川環樹訳を参考にしながら、しかも小川環樹監修の漢和辞典を使いながら(白川静も参考にしているけど)、小川訳と逆の老子になってしまうのだ。奇を衒うつもりはまったくない。だが、僕の老子は僕の心配に頓着せず、ずんずん進んでいくのだから仕方がない。
たとえば、後半の
「萬物作焉而不辭、生而不有、爲而不恃、功成而弗居、夫唯弗居、是以不去」の部分。小川訳では、聖人が主語になっている。だが、牛男訳では、どうしても「萬物」が主語にならないとおかしいと感じる。だから、小川訳とは全く違った世界になる。この部分、小川訳ではこうなる。
「万物はかれによってはたらかされても(その労苦を)いとわないし、かれは物を育てても、それに対する権利を要求せず、何か行動しても、それによりかからないし、仕事をしとげても、そのことについての敬意を受けようとはしない。自分のしたことに敬意を受けようとしないからこそ、かれは(到達したところから)追い払われないのである」
聖人を主語にしてしまうと、人生論と為政者の統治論のようになってしまう。中国は、北方と南方とでは、風土も民族も言葉も主食も異なる。老荘は南方中国の思想の源にある。このシリーズの最初にタゴールを置いたのは、南方中国とインドの親近性、そのベースに流れるリズムこそが、僕がもとめてきた「魂のふるさと」のありかだと直観したから。小川訳だと、どうしても北方中国(孔子)のアンチテーゼとしての老子が匂ってくる。これは逆立ちした孔子だ。僕が松岡正剛の「老子」に感情的に反発してしまったのも、僕の老子とは違っていたから。おそらく、他の老子訳も、欧米語からの転訳なのではないかという気がしてきた。
いずれにせよ、牛男の老子は勝手に歩みだした。もし、これが正しい老子ではなくても、それはそれで仕方がない。ニセ老子は歩みだした。牛男は後からついていくしかないのである。
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