プロフィール

Author:牛男
■マレーシア在住の塾教師。
インターナショナルスクール
IB Japanese講師。
男性 牛男、otiani
■ことば・異文化・論作文の紹介・マレーシアの紹介がメインですが、あちこち脱線しがちです。
■2007年2月2日開設

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はてのない器

4、はてのない器(牛男訳「老子」)


道沖
而用之或不盈
淵兮似萬物之宗
挫其鋭
解其紛
和其光
同其塵

湛兮似或存
吾不知誰之子
象帝之先



「道」は、はてのない器のよう。
いくら注いでもこぼれ出ることはありません。
ふかぶかと水を湛え、あらゆるもののふるさとのように。


そこでは、
あらゆる鋭さはまろやかになり、
あらゆるもつれは解きほどかれ、
あらゆる光は和らぎ、
あらゆる塵はとけあわさります。


ふかぶかと水を湛えて、それはあります。
だれによって産みだされたものなのか、わたくしは知りません。
でもそれは、
世界の秩序を統べるものよりもさきに、
とらえがたいものとして静かにたたずんでいたのです。




「沖」の元字は「盅」。「盅」は「虚しい器」「空の器」という意味。これをそのまま「空っぽの器」と訳してしまうのには抵抗がある。なぜなら、「虚」というのは、「神霊が降りてくる大きな丘」のことだから。たとえば、藤原定家の歌に「立ちのぼるみなみの果に雲はあれどてる日くまなき頃の虚」というものがある。定家は「虚」を「おほぞら」と読ませている。空っぽのように見えて果てしのない気配が充実しているもの、それが「虚」ではないか。そこで、「はてしない器」と訳してみた。小川環樹訳では「むなしい容器」と訳されている。これでは、老子の「道」の比喩として不適切であるし、「水を湛えている」のもおかしい。

「宗」は「祖先」「本源」という意味。それでは意味が限定されてしまうし、字柄が硬い。「みたまや」という言葉を使いたかった。でも、ちょっと行き過ぎかと思って「あらゆるもののふるさと」と訳してみた。

小川訳は、ウェイレリーの英訳を本にしているところがある。明治以降、東洋思想は西洋の文献研究によって発展したと言われている。それによって学問研究は体系が整った。しかし、老子本来の魅力が褪せてしまったような気がする。まあ、牛男訳は、ただ、自分だったら老子をこんなふうにイメージしたというだけのことだけど。

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