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<title>牛男通信</title>
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<description>「悪を為しうるわしらだけが、またそれに打ち勝つこともできるのだよ。」ハイタカ</description>
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<title>牛男通信へようこそ！ </title>
<description> トップページマレーシア在住の塾教師による、異文化交流と海外在住子女の作文の紹介を主としたブロク。さまざまな「ことば」にこだわってみました。画像は「線香立てになった牛男」書庫の紹介■子どもたちのマレーシア体験マレーシアの月間情報誌「パノーラ」に掲載中のコラム。■ことば探偵塾のニューズレターに連載中のコラム。さまざまな「ことば」を鋭く分析しているつもりですが、脱線気味で多くの事件は迷宮入りへ。■日記マレ
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<![CDATA[ <font color="#0000FF"><span style=font-size:large>トップページ</span></font><br /><br /><blockquote><p>マレーシア在住の塾教師による、異文化交流と海外在住子女の作文の紹介を主としたブロク。さまざまな「ことば」にこだわってみました。</p></blockquote><br /><br /><a href="http://blog-imgs-21.fc2.com/o/t/i/otiani/IMGP0553.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-21.fc2.com/o/t/i/otiani/IMGP0553.jpg" alt="IMGP0553.jpg" border="0"></a><br clear="all"><br /><br />画像は「線香立てになった牛男」<br /><br /><br /><strong><font color="#0000FF">書庫の紹介</font></strong><br /><font color="#FF0000">■子どもたちのマレーシア体験</font><br />マレーシアの月間情報誌「パノーラ」に掲載中のコラム。<br /><br /><font color="#FF0000">■ことば探偵</font><br />塾のニューズレターに連載中のコラム。さまざまな「ことば」を鋭く分析しているつもりですが、脱線気味で多くの事件は迷宮入りへ。<br /><br /><font color="#FF0000">■日記</font><br />マレーシアの日常のつれづれを描いたスケッチ。<br /><br /><font color="#FF0000">■食う・飲む・遊ぶ</font><br />マレーシアのＢ級グルメを紹介するはずが、Fisherman's Wharfというパブに入り浸っているだけ日記。<br /><br /><font color="#FF0000">■作文・小論文</font><br />管理人オススメの書庫。活きのいい作文の宝庫。<br /><br /><font color="#FF0000">■読書ノート</font><br />読書好きの管理人が乱読しながら熟思妄想しています。<br /><br /><font color="#FF0000">■インターナショナルスクール</font><br />アメリカ系インターナショナルスクールで、国際バカロレア日本語を教える管理人の楽しくも、トホホな日々。<br /><br /><font color="#FF0000">■ヘイズ</font><br />毎年、８～９月にやってくるインドネシアからの煙害ヘイズの記録。<br /><br /><font color="#FF0000">■授業</font><br />塾での授業風景を綴ってみました。<br /><br /><font color="#FF0000">■特集</font><br />何回かにわたる連載記事を集めた書庫です。<br /><br /><font color="#FF0000">■創作</font><br />自作の詩を中心にした創作。恥ずかしがってばかりじゃいられない。<br /><br /><font color="#FF0000">■桜</font><br />「桜」を通して日本文化の真相を探る。。。はずが途中で止まっています。<br /><br /><font color="#FF0000">■町で見つけた変なもの</font><br />こんな日本語あり？　こんな食べ物あり？というものを集めてみました。<br /><br /><font color="#FF0000">■旅行</font><br />マレーシア国内、バリ・ロンボク島（インドネシア）、日本など、チープだけど豊かな旅をご紹介。<br /><br /><font color="#FF0000">■ニュースを読む</font><br />ほとんど開店休業状態の書庫。<br /><br /><font color="#FF0000">■紙のおふね</font><br />ブロクで知り合った人への「ことば」のお舟。<br /><br /><font color="#FF0000">■魂のふるさと</font><br />エヴァンゲリオンをきっかけに、人類の魂のふるさとを探る旅の記録。<br /><br /><font color="#FF0000">■ブログ考</font><br />ブログというコミュニケーション・ツールについて考えてみたいと思っています<br /><br /><br /><br /><br /><br />◆マラヤ通信◆<br />ヤフー・ブログで開設中の兄貴分のブログ。現在「マラヤ通信」の記事を移転中です。将来的には「牛男通信」がメインになりそうな予感。気楽に閲覧、コメントをいただけるとありがたいです。<br /><br /><br /> <br /> <br /> <br /> <br /> ]]>
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<dc:subject>ご挨拶</dc:subject>
<dc:date>2010-03-14T02:06:36+09:00</dc:date>
<dc:creator>牛男</dc:creator>
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<title>上善若水</title>
<description> 第８「上善若水」  牛男訳『老子』上善若水水善利萬物而不爭處衆人之處惡故幾於道居善地心善淵與善仁言善信政善治事善能動善時夫唯不爭故無尤善きことは水のようです。水はあらゆるものに恵みをあたえ、あらそうことはありません。人びとが目をそむけるような低いところにいても平気です。このように、水は「道」にとても近いのです。低いところにあって、心の中にはふかく静かにたたえられた湖があり、あらゆるものを慈しみ、こと
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<![CDATA[ <span style="font-size:large;">第８「上善若水」  牛男訳『老子』<br /><br />上善若水<br />水善利萬物而不爭<br />處衆人之處惡<br />故幾於道<br />居善地<br />心善淵<br />與善仁<br />言善信<br />政善治<br />事善能<br />動善時<br />夫唯不爭<br />故無尤</span><br /><br /><br /><blockquote><p>善きことは水のようです。<br />水はあらゆるものに恵みをあたえ、あらそうことはありません。<br />人びとが目をそむけるような低いところにいても平気です。<br />このように、水は「道」にとても近いのです。<br /><br />低いところにあって、<br />心の中にはふかく静かにたたえられた湖があり、<br />あらゆるものを慈しみ、<br />ことばにはまことがあり、<br />おきてになっていることはととのえみちびき、<br />つとめをうまくやり、<br />行動するときは時をたがわず、<br />あらそうことがない。<br />それだからこそ、とがめられることがないのです。</p></blockquote><br /><br />老子の根本思想である、「道」が水の比喩によって描かれている章。水の自在で無限に流動するイメージが道の本質をよく表している。訳のときに困ったのは、「居善地、心善淵、與善仁、言善信、政善治、事善能、動善時」と続く対句の部分。「善」という言葉で前後を結びつけていくわけであるが、処世術のようにも読めてしまって、しっくりこない。他の現代語訳を参照にすると、いかにもお説教っぽく訳されている。いっそのこと、この部分を省略して訳出しようかとも迷ったが、なるべく説教臭いを出さないように心がけて訳してみた。訳がこなれていなくて不満足なものになった。ただ、「人びとが目を背けるような低いところにいても平気です。「低いところにあって、心の中にはふかく静かにたたえられた湖があり」という訳は、自分でも気に入っている。この部分だけでも、訳せてよかった。余談だが、「上善如水」だとは思うが、「上酒如水」ではないと、酒好きの牛男は思っている。<br /> ]]>
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<dc:subject>老子</dc:subject>
<dc:date>2009-06-03T11:31:37+09:00</dc:date>
<dc:creator>牛男</dc:creator>
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<title>みんなちがって、みんないい。</title>
<description> 金子みすずの名前は聞いたことがある程度でした。生徒が口ずさむのを聞いて、「誰の詩？」と聞くと、「先生、金子みすずを知らないの？」って驚かれたり、「先生、金子みすずの詩っていいよね」と言われたり。詩人について生徒から積極的に話しかけられた珍しい経験でした。そういうわけで「みんなちがって、みんないい。」というフレーズぐらいは知っていたのですけれど、詩集を手にするまでには至ってなかったのです。先月、日本
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<![CDATA[ 金子みすずの名前は聞いたことがある程度でした。生徒が口ずさむのを聞いて、「誰の詩？」と聞くと、「先生、金子みすずを知らないの？」って驚かれたり、「先生、金子みすずの詩っていいよね」と言われたり。詩人について生徒から積極的に話しかけられた珍しい経験でした。そういうわけで「みんなちがって、みんないい。」というフレーズぐらいは知っていたのですけれど、詩集を手にするまでには至ってなかったのです。<br /><br />先月、日本に帰国した生徒が、何冊かの本を寄付してくれました。その中に『金子みすヾ童謡集』（角川春樹事務所）がありました。僕は、いま、『老子』の訳を試みています。それは、従来の訳がもの足りないからです。日本では漢文は「男の文学」だったので、どうも勇ましい。老子ですら男らしくがっしりした訳になってしまっています。そのことにずっと違和感があって、原文を眺めていると、あれ、違うんじゃないかという気持ちになりました。そのあたりのことは省略しますが、老子の訳をしているときに、金子みすずの詩に出会って、僕の中では、高良訳タゴールと、牛男訳老子と、金子みすずの世界がすっと重なりました。<br /><br />簡単にいうと、それは、価値判断の入らない世界です。小鳥があって、鈴があって、私がある。それぞれの存在は、あるがままにあり、なすがままになしている。それは宇宙の中にある物質が、たまたま小鳥や鈴や私という形をとっている。<br /><br /><br /><blockquote><p>「打たれぬ土は／踏まれぬ土は／要らない土か。<br />いえいえそれは／名のない草の／お宿をするよ。」（「土」より）</p></blockquote><br /><br />役に立つ、役に立たないというのは、ある条件のある人間によって価値判断がなされたものです。しかし、宇宙は、そして宇宙に偏在しているありとあらゆるものは、人間の価値判断などには頓着せずに、「関係」しています。さまざまに出会い、結びつき、離れていく。老子が「道」と呼び、仏教が「縁」と呼ぶ。それを、人間中心の価値判断が歪めてしまう。老子はその状態を「大道廃れて仁義あり」という言葉で表現します。<br /><br /><br /><blockquote><p>「星とたんぽぽ」<br /><br />青いお空の底ふかく、<br />海の小石のそのように、<br />夜がくるまで沈んでる、<br />昼のお星は眼にみえぬ。<br />　　見えぬけれどもあるんだよ、<br />　　見えぬものでもあるんだよ。<br /><br />散ってすがれたたんぽぽの、<br />瓦のすきに、だァまって、<br />春のくるまでかくれてる、<br />つよいその根は眼にはみえぬ。<br />　　見えぬけれどもあるんだよ、<br />　　見えぬものでもあるんだよ。</p></blockquote><br /><br />金子みすずは、見えないものに目をこらし、聞こえないものに耳を澄ませる人です。「形あるものは形ないものに触れている」ことを、理屈によってではなく、身体感覚によって知っている人です。存在の奥にある宇宙エネルギーの大きな流れがあって、それを感得できるものたちの世界では、「みんなちがって、みんないい」のです。<br /><br /><br /><blockquote><p>「私と小鳥と鈴と」<br /><br />私が両手をひろげても、<br />お空はちっとも飛べないが、<br />飛べる小鳥は私のように、<br />地面を速くは走れない。<br /><br />私がからだをゆすっても、<br />きれいな音は出ないけど、<br />あの鳴る鈴は私のように<br />たくさんな唄は知らないよ。<br /><br />鈴と、小鳥と、それから私、<br />みんなちがって、みんないい。</p></blockquote><br /><br /><br /><br />価値を共有している社会、豊かで平和な社会に住んでいる者同士でないと「みんなちがって、みんないい」とはいえない。そういう考えを持つ人もいます。そうでしょうか。僕にはその世界観は窮屈すぎます。なぜなら、それは結局「みんなおなじで、ちょっとした差異を楽しむ」社会でしかないからです。金子みすずの「みんなちがって」は、もっと徹底したもの。おそらく、人間社会に対する絶望をも前提にしたもの。やさしく、やわらかく、みずみずしいことばを紡ぐ人というのは、そのような地獄と諦念を静かに抱きしめているものです。<br /><br />金子みすずは昭和５年（１９３０年）、２６歳で自死しています。父を早く亡くし、生活を支えるために結婚しますが、彼女に理解を示さない夫から、創作することも文芸仲間と文通をすることも禁じられます。遊廓遊びを続ける夫から淋病を移され、離婚を決意します。離婚の条件は、娘を自分が育てたいということ。それすらも、認められずに、離婚の１０日後に自ら命を絶ちました。<br /><br />金子みすずは、夫から表現活動を禁止された後、娘のことばを集めた「南京玉」という手帳をつくります。<br /><br /><br /><blockquote><p>「南京玉」<br /><br />なんきんだまは、七色だ。一つ一つが愛らしい。尊いものではないけれど、それを糸につなぐのは、私にはたのしい。／この子の言葉もそのように、一つ一つが愛らしい。人にはなんでもないけれど、それを書いてゆくことは、私には、何ものにもかへがたい、たのしさだ。／南京玉には、白もあるし、黒もある。この子の言葉は、意味はなくとも、また「詩」なんぞはなおのこと、えんもゆかりもなくっても、ただ「創作」でさへあれば、残らず書いてゆく事だ。</p></blockquote><br /><br />他の人からみると価値のないもの。でも、それは自分にとっては何ものにもかえがたい。金子みすずは、「かけがえのないもの」を、「あるがままの存在」をあらゆるものに感じとってしまう人だったのでしょう。<br /><br /><br /><br /><blockquote><p>「不思議」<br /><br />黒い雲からふる雨が、<br />銀にひかっていることが。<br /><br />私は不思議でたまらない、<br />青い桑の葉たべている、<br />蚕が白くなることが。<br /><br />私は不思議でたまらない、<br />たれもいじらぬ夕顔が、<br />ひとりでぱらりと開くのが。<br /><br />私は不思議でたまらない、<br />誰にきいても笑ってて、<br />あたりまえだ、ということが。</p></blockquote><br /><br />このブログでは「異文化交流」をテーマの一つにしています。小論文の授業でも中心となるテーマです。異文化を理解するためには、自らの価値を相対化する視点と、「寛容性（tolerance）」が必要であると僕は考えます。しかし、金子みすずの「みんなちがって、みんないい」は、そうした相対主義とは違うのです。そうした論理は大人の思考であり、そうした大人の賢しらな思考を金子みすずは身につけることはなかった。彼女は少女にとどまったまま、世界とじかに触れていたのです。そこでは、宇宙の中にある物質が、たまたま小鳥や鈴や私という形をとっている。そして存在の歌をうたっている。だから、「みんなちがって、みんないい」のです。<br /> ]]>
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<dc:subject>読書ノート</dc:subject>
<dc:date>2009-02-15T13:19:04+09:00</dc:date>
<dc:creator>牛男</dc:creator>
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<title>神秘なる女性の門</title>
<description> ６ 神秘なる女性の門（牛男訳『老子』）谷不死是謂玄牝玄牝之門是謂天地之根綿綿若存用之不勤谷の精は死ぬことがありません。それは、神秘なる女性と呼ばれています。神秘なる女性の門は、天地の根源と呼ばれています。そこからあふれでる水は、ちろちろと流れつづけ、絶えることはありません。そのはたらきは、尽きることがないのです。「神」は示すへんに「申」。「申」という字は、雷光の象形。「古代論理の世界を遊ぶ」という
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<![CDATA[ <span style="font-size:large;">６ 神秘なる女性の門（牛男訳『老子』）<br /><br /><br />谷不死<br />是謂玄牝<br />玄牝之門<br />是謂天地之根<br />綿綿若存<br />用之不勤</span><br /><br /><br /><blockquote><p>谷の精は死ぬことがありません。<br />それは、神秘なる女性と呼ばれています。<br />神秘なる女性の門は、<br />天地の根源と呼ばれています。<br />そこからあふれでる水は、<br />ちろちろと流れつづけ、絶えることはありません。<br />そのはたらきは、尽きることがないのです。</p></blockquote><br /><br />「神」は示すへんに「申」。「申」という字は、雷光の象形。「古代論理の世界を遊ぶ」という記事で紹介したように、雷光の形は竜となり、洪水も竜、火山の溶岩流も竜である。 このように、古代の神は自然を象ったもの。でも、現代の僕たちは神というとキリスト教的な超越論的絶対神を思い浮かべるのではないだろうか。だから、あえて精と訳した。ここで水のイメージが出てくる。谷から湧き出る泉。これは女性である。「玄牝之門」から女性性器をイメージした人があったとしたら、それは正しい。すべての生命が生まれでるところ。古代世界のあらゆる場所で、このようなグレート・マザー（大地母神）が崇められていた時代があった。それは、父権制社会に移行する中で貶められ、隠されてしまったが、ヨーロッパはキリスト教を受けいれるときに、聖母マリアの中に母なる神をもぐりこませた。このあと、老子は、水、嬰児、女などの柔らかく、弱く、しなやかなもののイメージを使って、「道」を描こうとする。<br /> ]]>
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<dc:subject>老子</dc:subject>
<dc:date>2009-02-15T13:14:46+09:00</dc:date>
<dc:creator>牛男</dc:creator>
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<title>あるがまま、なすがまま。</title>
<description> ２、「あるがまま、なすがまま。」（牛男訳『老子』）天下皆知美之爲美斯惡巳皆知善之爲善斯不善巳故有無相生難易相成長短相形高下相傾音聲相和前後相随是以聖人處無爲之事行不言之教萬物作焉而不辭生而不有爲而不恃功成而弗居夫唯弗居是以不去世の中の人がみな、美しいものを美しいと認識したときに、おのずから醜さの認識が生まれました。みなが善なるものを善と認識したときに、おのずから悪の認識が生まれました。このようにし
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<![CDATA[ <span style="font-size:large;">２、「あるがまま、なすがまま。」（牛男訳『老子』）<br /><br /><br />天下皆知美之爲美<br />斯惡巳<br />皆知善之爲善<br />斯不善巳<br /><br />故有無相生<br />難易相成<br />長短相形<br />高下相傾<br />音聲相和<br />前後相随<br /><br />是以聖人處無爲之事<br />行不言之教<br /><br />萬物作焉而不辭<br />生而不有<br />爲而不恃<br />功成而弗居<br />夫唯弗居<br /><br />是以不去</span><br /><br /><br /><br /><blockquote><p>世の中の人がみな、美しいものを美しいと認識したときに、<br />おのずから醜さの認識が生まれました。<br />みなが善なるものを善と認識したときに、<br />おのずから悪の認識が生まれました。<br /><br /><br />このようにして、<br />存在するものと存在しないものは認識することによって生まれ、<br />難しいものと易しいものはおたがいに補いあい、<br />長いものと短いものはそれぞれの形をはっきりとさせ、<br />高いものと低いものはそれぞれの差をあらわし、<br />異なった音階はハーモニーを生み、<br />前と後ろはおたがいの順番をつくるようになったのです。<br /><br /><br />聖人はそのことを知っているからこそ、<br />認識することをやめて、なすがままにしておき、<br />沈黙することで宇宙の神秘を伝えようとしました。<br /><br /><br />あらゆるものは、それぞれ気ままに動きまわるだけで、その意味を求めたりはしません。<br />なにかが生れても、それを所有することもなく、<br />なにかの行いをしても、それに頼ったりはしません。<br />なにかが成しとげられても、そこにとどまったりはしないのです。<br />そう、そこにとどまったりはしないのです。<br /><br /><br />それだから、何ものも失うことはないのです。</p></blockquote><br /><br /><br />僕の訳はとんでもない誤訳かもしれない。小川環樹訳を参考にしながら、しかも小川環樹監修の漢和辞典を使いながら（白川静も参考にしているけど）、小川訳と逆の老子になってしまうのだ。奇を衒うつもりはまったくない。だが、僕の老子は僕の心配に頓着せず、ずんずん進んでいくのだから仕方がない。<br /><br />たとえば、後半の<br /><br />「萬物作焉而不辭、生而不有、爲而不恃、功成而弗居、夫唯弗居、是以不去」の部分。小川訳では、聖人が主語になっている。だが、牛男訳では、どうしても「萬物」が主語にならないとおかしいと感じる。だから、小川訳とは全く違った世界になる。この部分、小川訳ではこうなる。<br /><br />「万物はかれによってはたらかされても（その労苦を）いとわないし、かれは物を育てても、それに対する権利を要求せず、何か行動しても、それによりかからないし、仕事をしとげても、そのことについての敬意を受けようとはしない。自分のしたことに敬意を受けようとしないからこそ、かれは（到達したところから）追い払われないのである」<br /><br />聖人を主語にしてしまうと、人生論と為政者の統治論のようになってしまう。中国は、北方と南方とでは、風土も民族も言葉も主食も異なる。老荘は南方中国の思想の源にある。このシリーズの最初にタゴールを置いたのは、南方中国とインドの親近性、そのベースに流れるリズムこそが、僕がもとめてきた「魂のふるさと」のありかだと直観したから。小川訳だと、どうしても北方中国（孔子）のアンチテーゼとしての老子が匂ってくる。これは逆立ちした孔子だ。僕が松岡正剛の「老子」に感情的に反発してしまったのも、僕の老子とは違っていたから。おそらく、他の老子訳も、欧米語からの転訳なのではないかという気がしてきた。<br /><br />いずれにせよ、牛男の老子は勝手に歩みだした。もし、これが正しい老子ではなくても、それはそれで仕方がない。ニセ老子は歩みだした。牛男は後からついていくしかないのである。<br /><br /> ]]>
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<dc:subject>老子</dc:subject>
<dc:date>2009-02-01T15:49:23+09:00</dc:date>
<dc:creator>牛男</dc:creator>
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