第5章「天地不仁」
天地不仁
以萬物爲芻狗
聖人不仁
以百姓爲芻狗
天地之間
其猶槖籥乎
虚而不屈
動而愈出
多言數窮
不如守中
自然には慈しみの心はありません。
自然は非情です。
すべてのものを、祭りの後に捨てられるわらづくりの犬の飾りのように扱うのです。
聖人にも慈しみの心はありません。
聖人はすべての人たちを、祭りの後に捨てられるわらづくりの犬の飾りのように扱うのです。
天と地の間は、風をおくるふいごのようです。
からっぽだけれど、尽きることがなく、
動かせば動かすだけ、いよいよ力がわき出てきます。
多くの言葉で埋めようとすると、ことばの力は使い果たされるので、
その中をからっぽなままにしておくにこしたことはないのです。
「芻狗」は「乾草を結び合わせて狗の形をつくり、これを祭りのときの飾り物にする。祭りが終わればすてられ、そこを歩く人にふみつけられる」(宋の蘇轍)とある。自然には善も悪もない。これは、仁を最高の価値とする孔子を真っ向から否定する認識であるが、それは同時に、キリスト教的ヒューマニズム(理性至上主義)にどっぷりと漬かった僕たち現代人にも刺激的な認識だと思う。
「聖人」について、小川環樹は「為政者」の統治のありかたとしているが、そうだろうか。老子は孔子流の「人倫の道」ではなくて、宇宙のあらゆるものを生みした母胎としての何ものかを、無として、その働きを道として仮に名付けている。当然、聖人というのは、為政者ではなく、そうした道を知るもののことではないか。聖人とは、自然と同じく、物事を善悪の二元論で見ない人である。人倫という価値観の中で思考しないから、非情だと言っているのである。後半の「多言」というのは、人倫的な価値観によって意味づけようとする行為のこと。天地の間には目には見えないが充実した虚がある。それは意味づけを超えたものであり、言葉によって意味づけられ、認識されたと思っている人たちの思慮を超えて充満している力である。
小川訳は老子を政治的に読み取ろうとしている。たとえば、この章を「政府は人民に対して無関心であるような態度をとるべきだ」と解釈する。僕が牛男訳を試みているのは、そうした政治的な読みに対して疑問があったから。小川訳だけでなく、これまでの老子の訳は、原文にある女性的な認識を排除して何とか男性的な論理に持っていこうとする意図が見え隠れした。できるだけ原文のしなやかで柔らかい老子を掬い出したい。

